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読書をしている方の中には、知的好奇心が旺盛な方も多いのではないでしょうか。特に長年読書を続けておられる方は、この知的好奇心を満たすことがなによりの快楽でもあり、実際に仕事を含めた実生活においても大いに生きる、優れたものでもあると考える方もいらっしゃるかと思います。
私はまさにその一人であり、数年前に本書を購入した当時は全くといっていいほど響かなかった本書も、知的好奇心の塊となった今、改めて再読してみると、自分にとって大変ぴったりな本であることを感じ、強い興奮を覚えています。
初版は1976年とかなり昔の本ではありますが、上智大学の名誉教授であり英語学者でもあった渡部昇一さんの書かれた本書はまさに、学ぶことが好きな方にとっては最高の一冊と言えるでしょう。
本書では、昔から広く大切にされてきた読書方法や読書論などと合わせて、実践的な本の読み方、古典をはじめとした難しい本との関わり方、地の探求を深める際に必要となる心構えなどが示されています。渡部さんの学生時代の学び方や社会人として様々な活動をされてからの学び方を通しては、体系的に物事を学ぶ術についてを深く理解していくことができるでしょう。
また、知的生活を実現すための食生活、睡眠、時間管理、朝方か夜型か、はたまた理想の書斎なんかについても綴られており、読書や学びを深めるということを愛する人にとっては大変重宝する話ばかりです。
読書とは多読をすればいいのか、それとも精読をすればいいのか。これについては答えがないような気もしますし、私自身、知的好奇心が大変強いということからも、できるだけ多くの本に触れたいと日々思うものです。
多くの本と出会って、読み進めていくわけですが、多読か精読かについての良し悪しは置いておいても、学びを深めるといった観点から考えてみますと、多読にしろ精読にしろ共通して大切にしなくてはならないものがあると感じます。
それは、知ったかぶりをしないということ。この姿勢が、ただの物知りであったり、「薄っぺらな知識を有したただの本好き」という恥じるようなレッテルを貼られないためにも、何においても大切な心構えであると思うのです。
本を読み進めているうちに知らない言葉や価値観、概念、事象が飛び出してきても、前後の文脈だけで簡単に理解しようとしてしまう。時にそれが憶測の域であっても、理解したものとしてしまう。こうしたことが積み重なってしまっては、本当の意味での”知”はいつになっても手に入れられないものであるのだと、本書を通して強く気付かされました。
読書に限った話でないことは当然ですが、「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」なんて諺もある通り、知ったかぶりをして過ぎ去ることが人生においてどれほど悪なことでしょうか。恥ずかしながら私は読書体験だけでなく、実生活においても”知ったかぶり”を続けてきたまま高校やその後の数年の時間を過ごしてしまいました。
20歳過ぎごろあたりから、これではダメであると感じ出せるようになったのですが、今きちんと考えてみると、そこにはプライドや見栄であったり、他人からの目というものを過剰に意識している自分の姿があったと感じさせられます。もちろんそこには恐れや不安などもあったわけですが、そうした姿勢はやはり、読書という知の探究においても現れるもので、体系的な学びとして自分の中に定着しきれていない知識が多々あると考えさせられます。
より高度な知と高い教養を求め、ただの本好きとして終わってしまわないためにも知ったかぶりの姿勢は、今すぐにでも排除していくべき事項という考えに至らされました。
私はこれまで、あまり図書館で本を借りることを好んできませんでした。できるだけ本をコレクションしたいような気持ちもあったし、いつでも好きな時に見返せるのが至福でもあると思っていたためです。
本書を通してはさらに、本は買う派!の姿勢を強められた気がしています。私は基本、気になったところには緑色のマーカーで好きなだけ線を引いて、線を引いたページには付箋を貼ります。もうこれが癖になってしまっていて、だからこそ本を借りたくない気持ちもあるのです。
電車の中で本を読むといった場合にはこの作業ができないため、電車で読書をすることを好まないほどにもなりました。こうした読書のやり方が自分としては正解といいますか、大変しっくりきていたのですが、本書においてもきちんと本を買って線を引くことの重要性についてなんかも触れられていて、自分のやっていた方法は間違いではなかったのだと、ちょっぴり嬉しくなった自分がいました。
知的生活と聞くと、なんだか鼻につくようなイメージも持ちかねませんが、本当の意味での知的生活とは、生半可なものでは実現できないのだと、本書からひしひしと伝わってきたような気がしています。